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多久 茂文(たく しげふみ)1669~1711

孔子の里│多久聖廟 佐賀2代藩主光茂の三男として生まれ、その後、多久茂矩の養子として多久四代邑主となり、貞亨三年(1686)に十七歳で家督を継ぎ4代領主となりました。
若い頃より学問を好み、儒学者・武富咸亮、佐賀藩の儒臣・実松元林に学びました。多久の邑主となると、佐賀から川浪自安を招き、東原庠舎・多久聖廟を創建し、文教の地・多久を築きます。
自ら人々に学問の大切さを説き、施政にあたっては儒学を重んじ、文武を奨励し、人材の育成に力を注ぎました。
殊に、聖廟建立に臨んで著した「文廟記」には、「敬は一心の主宰、万事の根本にして、万世聖学の基本たり」と記され、さらに廟舎を視れば敬は自然に湧き出てくると述べています。
茂文の教育と政治への決意や理想は、後世大きく開花し、多くの人材を輩出しました。

多久茂文公之像建立
銅  像  名:多久茂文公之像
製 作 年 月:平成十二年(2000)十二月
参 照 図 版:御厨夏園筆多久茂文肖像画
銅像製作者:成冨宏
寸 法:高さ 180糎
建設者:多久市

多久茂文之像経過報告

この事業は、平成11年(1999)4月より東原庠舎の創立300年を経過して「多久茂文」銅像製作、建立構想の調査を始めまして、10月に銅像の製作を多久市より佐賀大学の成冨宏教授に依頼致しました。
この銅像の参考図版には、多久市郷土資料館所蔵の茂文唯一の肖像画であります御厨夏園筆「正智軒雄山君御景」を使用しております。
 この図版は、郷土資料館に常設展示され、また、釈菜のたびに市民に親しみ、慕われた掛け軸であります。
 今回、建立した多久茂文の銅像は、祭官の衣装を身に付け、自愛に満ちた品格と威厳のある姿で、また、躍動感のある像として製作されています。
 今後、市民の誇りとなり、21世紀に向け文教の地「多久」のシンボルとして永く愛され、この地をおたずれる人々に、茂文の教育と政治への熱い理想を語りかけていくものと確信しております。
 この事業に関わられた製作者の成冨宏氏はじめ、ご協力をいただきました関係各位に深甚の謝意を表するもの


多久の賢人Wise Man


川浪 自安(かわなみ じあん)1635~1719

寛政12年(1635)佐賀郡八戸に生まれ、名を忠兵衛といい、自安と号しました。幼いときから学問が好きで、初め松永宗雲に医術を学び、江戸へ出て、吉田法印の門に入り、儒学(朱子学)を学びました。帰国して多久三代邑主多久茂矩に外医として仕え、武富咸亮・実松元林とも交際がありました。
四代邑主多久茂文が東原庠舎を設立すると、初代教授となり東原庠舎の基礎を築きました。聖廟建設にも力をつくしました。道義心が強く人望が厚く、人々から尊敬され、模範的な学者として一生を送りました。享保4年(1719)85歳で没し、多久聖廟北の松山墓所に葬りました。昭和52年墓地改葬の折、墓誌が発見されました。


石井 鶴山(いしい かくざん)1744~1790

延亨元年(1744)多久に生まれ、名を有助といい、鶴山を号としました。貧しい家に育ちましたが、幼い時から学問を好み、17歳で東原庠舎の都講(塾生の長)となりました。僧大潮に進められて、京都で学問に励みました。
帰国して、佐賀8代藩主鍋島治茂に認められ、藩校弘道館の設立に力をつくし、伴読国学教諭に任ぜられました。また、藩主の顧問的な役も務め、寛政元年(1789)藩主に従って江戸に行き、帰国の折、摂津(現在の大阪)で病気のため翌年に没しました。享年47歳でした。


深江 順房(ふかえ じゅんぼう)1771~1848

深江順正の孫で、名を三太夫といい、簡斎と号しました。天明7年(1786)東原庠舎に学び、庠舎の句読師となりました。藩校弘道館を出てからは、東原庠舎の教授となりました。のち大監察・鉄砲物頭などの役も勤めました。一方、草場佩川に命じて、「多久諸家系図」七巻を編集、また、邑内の自然・地理歴史・経済などの全ての面にわたる事項を紹介した「丹邱邑誌」五巻を弘化4年(1847)、76歳の時に書いています。嘉永元年(1848)78歳で没し、長尾の福聚寺に葬られました。


草場 佩川(くさば はいせん)1787~1867

天明7年(1787)多久町に生まれ、名を瑳助といい、佩川と号しました。幼い頃から非凡で、8歳で東原庠舎に入門し、15歳の時に東原庠舎の句読師補をつとめました。18歳の時、多久9代邑主多久茂鄰の命により、佐賀藩校弘道館で国学を学び、画を江越繍浦に習いました。文化7年(1810)江戸に出て、同郷の儒官・古賀精里の門に入りました。文化8年(1811)精里が第12回の朝鮮通信使を迎えるため、対馬に渡るのに同行しました。この時の記録に「津島日記」があります。天保5年(1834)藩校弘道館教諭・教授となりました。明治政府で活躍した大隈重信・副島種臣・大木喬任・江藤新平などの人材を育てました。佩川は学問だけでなく、武芸・詩歌・絵画などにも優れた才能を持ち、作品は1万点とも2万点ともいわれています。慶応3年(1867)81歳で病死し、大古場墓地に葬られています。草場船山は長男です。


草場 船山(くさば せんざん)1819~1887

文政2年(1819)草場佩川の長子として生まれ、名を立太郎といい、船山を号としました。幼い時から学問にすぐれ、詩文・書画をよくしました。23歳の時、江戸に遊学し、古賀どう菴・筱崎小竹に学び、帰国して東原庠舎に奉じ、一方、家熟千山樓を開いて弟子の教育にあたりました。安政2年(1855)京都に出て、梁川星厳・頼三樹三郎とも親交があり、謀議にも加わりましたが、父の病気のため帰国し、肥前田代の学政にたずさわり、晩年、伊万里の啓蒙塾(後の伊万里小学校)を建てました。明治9年(1876)京都の本願寺の招きで漢学教授となりましたが,同18年(1887)病のため没しました。


多久 茂族(たく しげつぐ)1833~1884

第11代多久邑主、戊辰戦争で若松城を攻める。浜松県令、第2代伊万里県権令、県庁を伊万里から佐賀に移し、県名を佐賀県に変更し、佐賀県令を歴任。旧士族の授産事業や炭坑開発に尽力。


鶴田 斗南(つるだ となん)1835~1888

法学者。鶴田斌の長男、草場佩川、安積良斎に学ぶ。戊辰戦争後、大学校教授となり、明治3年(1870)刑部称に転じ大録、小判事を歴任。明治5年、ヨーロッパに外遊、先進各国の刑典・司法事務を視察、帰国後は明法権頭、司法大丞、1等法制官、検事を歴任。明治13年元老院議官、翌年参事院議官に進み、18年元老院議官に再任、この間、刑法を起草し、治罪法、陸軍刑法、会社条例、破産法の制定に参与。


高取 伊好(たかとり これよし)1850~1927

実業化。鶴田斌の三男、高取家の養子となる。東原庠舎に学び、のち草場佩川に学ぶ。上京して箕作?奎吾や石丸安世の私塾に学び、慶応義塾で鉱山学を学んだ後、工部省所管の工学寮に入り採炭学を修めた。卒業後、直ちに高島炭鉱に入り技師長を勤めた。次兄横尾庸夫の柚ノ木原炭砿に関係し、芳ノ谷炭砿を経営、数々の炭砿経営を経て、杵島炭砿を手に入れ、大正7年(1918)、高取鉱業株式会社を設立した。大正8年、古希を機に事業界を退隠後、地元や社会事業に巨額の寄附を行う。多久村に図書館、公会堂、西渓公園を寄附した。


飯盛 挺造(いいもり ていぞう)1851~1916

外務省語学所に入り、東京外国語学校教員心得、東京大学医科助授を経て、同大学医科助教授に任ぜられる。明治17年(1884)ドイツ・フライブルグ大学に留学、微量天秤を用い、「物質表面に凝縮する水分薄膜並びに水銀薄層の重量」決定に関する研究を遂げた。帰国して第四高等学校教諭、教授、女子師範学校教授、同校校長代理を歴任。この間、東京薬学校を設立して、教頭となり、済生学舎の教授を兼ねる。明治12年「物理学」(訳書か)を著述する。


志田 林三郎(しだ りんざぶろう)1855~1892

幼児期から頭脳明晰で神童と呼ばれ、東原庠舎に学び、草場佩川が驚くほど漢書や史記に通じ維新後藩費で東京留学、東京工学寮で電信学を修め、英国グラスゴー大学に留学し、在学中に物理の初級クラスで最優秀賞、数学クラスの上級筆記試験で二等賞、物理クラスの上級数学試験で一等賞、最優秀論文に与えられるクレランド金メダルを受賞。明治16年(1883)帰国後工大学教授となり、さらに逓信省工務局次長を兼ねた。明治21年には、我が国第一号の工学博士号を授与され、また電気学会を創設し、その演説のなかで「高度多重通信」「等距離無線通信」「海外放送受信」「長距離電力輸送」「電気自動車・電気船舶・電気飛行機」「光利用通信」「電気自動記録(録音・録画)」「地電気や空間電気変動による地震予知や作物収穫予想」などを予測している。


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